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被爆者の死とともに風化していくその「人生」と「思い」を留めておきたく、2011年8月長崎原爆ホームに3人の被爆女性を取材し、靴底の写真を撮影させていただきました。今はカトリックの施設に暮らす3人の老婦人の口から淡々と語られた凄まじい人生の足跡(そくせき)をなるべく多くの人に伝えたいと思います。
<永瀬カズ子さん(2011年取材時73歳)>
*城山小学校・・爆心地から約500m
私は城山小学校1年生のときに被爆しました。あの頃は学校に行っても勉強なんかなくて空襲がきたときのために机の下にもぐる練習ばかりしてました。
私は生まれつき足の悪い身障者でした。
原爆が落ちたときは一瞬目から火花がでたようで壁の音がバラバラしていたけどそのまま気を失って家の下敷きになりました。気がつくと足元に隙間があったのでそこから這い出たんですが叔母が材木に顔をひしゃがれていて怖くてまた気を失ってしまい気がつくと防空壕の中に連れてこられていました。外は空がひっくり返ったようにゴロゴロと油が燃えているようでした。私は怖くて泣いているんですけど涙はでないんです。横にいる人は全身が真っ赤に焼けただれていて、目がどこにあるのか口がどこにあるのか分からなかったんですが、「カズ子」というのでよく見るとそれは母だったんです。父は三菱の造船所で働いていたのですが一面火事ですぐには家に戻れず、翌日帰ってきて、防空壕の入り口で誰はいるかー、彼はいるかーと、学校の先生が点呼をとるように呼んだんです。うちは子ども多いですから。でも誰もいなくて。そのうち6年生の兄が帰ってきました。湖で泳いでいたけどその瞬間底まで突き落とされたと言って丸裸で顔は丸焼けでした。弟はガスを吸い込んで全身に紫色の斑点がでていて頭もぼこぼこで水を欲しがっていたけどそのうち死にました。姉は母と同じような感じでしたが金魚のように口をぱくぱくさせながら翌日死にました。母も死んだので父が母がいつもご飯を炊いていた薪を水の無い川に敷いて、その上に母と姉を乗せて(私も手伝ったのです)下から火をつけて焼きました。
近所の人達も殆ど死んでいたので父がやはり水の無い川に放り込んで芋を焼くようにして焼いたんです。
私をいつも可愛がってくれていた隣のお婆ちゃんがいて、いつも私はあんまなんかしてあげておにぎり貰ったりして嬉しかったんですが、孫の男の人がどこにも行かないようにとこのお婆ちゃんを犬小屋のような金網の中に入れてしまって・・。髪を振り乱して額の傷にはうじが一杯湧いていてお化けみたいで恐ろしく、水を欲しがるのでおそるおそるあげていたけど腕を摑まれそうで怖くて・・。しばらく生きていたけどやがて死んだのでやはり父が焼いてお骨を小さなやかんに入れてました。
あのあとはよく雨が降ったので父が城山の住宅地から拾ってきたトタンと材木で建てた掘立小屋で雨をしのぎました。その後父が小さな家を建てましたがその父も11月には死んでしまいました。
結局兄弟10人のうち私と兄2人と姉1人が生き残りました。あと6人は皆死んだり行方不明のままです。
そのうち上の兄が生活のために家を売ってしまったので私は住むところが無くなり、あちこちの家を転々としながら子守をして育ちました。今の平和記念像のあるあたりに立っていたら何処で聞いてか誰かが連れに来るのでいつもそのままついていってたんです。20歳くらいまでそんな感じでした。着るものもそこの家の人のを貰って着てました。
ごくたまに学校に行くこともありましたが、行けば原爆のせいで足が悪くなったように言われ、「原爆病がうつる」といっていじめられました。
親戚の人達からも「あんたがいると就職や縁談に差し障る」といわれ、さげすまれました。
その頃2番目の兄が小さな家を建てたので一緒に住んでいたのですが、お嫁さんが来て、私はこのお嫁さんからも徹底的にいじめられてしまいました。足の悪い私が余程疎ましかったのでしょう。お布団を取り上げられ、原爆病院から貰っていた月3000円の手当ても印鑑も取り上げられて大阪の製縫工場に住み込みで働きに行かされました。・・追い出されたんですね。
そこでは私は洋裁の知識も何も無いので仕事についていけず、家事労働のほうに回されてしまいました。社長さん宅の家事、子守と住み込みの従業員とその家族40人分の食事の用意と片付け一切全部私がやらないといけなかったんです。朝はそのうちパンに替わったので前の晩から籠一杯買ってきてました。それでも社長さん宅の神様仏様にあげるご飯は炊かないといけないわけですよ。大変でした。赤ん坊をおんぶしてやってました。夜なんかひとりで沢山食べる人がいたので私が食べるぶんが無くなったりして。・・おかずは私も従業員も皆悪かったです。5年間のうちお魚を食べさせてもらったのはたった1回だけでした。
ここでも被爆者だといっていじめられたり差別されることが多く、どうしても耐えられなくなってとうとうそこを辞めて長崎に帰り、足の手術を受けました。でも帰っても私は住むところが無いのでそこの先生が身障者のための職業訓練校のようなところを紹介してくださって1年間寮に入って洋裁を基礎から学びました。あのときほど嬉しかったことはありませんでした。生まれて初めて教育らしい教育を受けることができたんですから。
・・男ものの背広も縫えるようになったので兄を喜ばせたくてズボンを縫ったのですがやっぱりお嫁さんが受け取ってくれませんでした。
・・・何回か自殺未遂をしましたが、結局37歳のときからここのお世話になってます。
ここにはミシンを持ち込んで皆の洋服を縫ってあげてましたが今はもう歳とってやってません。
生きてて良かったと思ったことは殆どありませんでしたが、今はここでお友達もできましたし良くしてくださるので有難いと思ってます。
どうにかして生きていれば良いこともあると最近は思うようになりました。
<延田シヅ江さん(2011年取材時92歳)>
私は26歳のとき爆心地から3.7キロの地点で被爆しました。うちは両親と妹と私の4人家族で家業は額縁屋でした。絵も売ってましたがそんな高尚なものではなくてモナ・リザの複製とかポスターとかですけどね。1941年に大東亜戦争が宣戦布告されるとその夜から食糧も衣料も皆切符制になってお金では買えなくなりました。贅沢品も売れなくなってうちも休業して父は三菱兵器製作所に型作りをしに行ってました。額縁作ってましたからね。私は軍の食糧営団本部の会計課に勤めていました。妹はカステラの福沙屋に勤めていたのですが、そのころは軍に納める固パンしか作ってなかったんです。母は田舎に買出しに行って手に入れた米に配給の脱脂大豆を混ぜて炊いてました。卵や酢の配給といえば100人並ぶといった感じで・・。お金は働いているのでそれなりに入るんですけど何でも勝手には買えないわけです。
1944年にアッツ島、硫黄島、サイパン島が占拠されるとそこを拠点にアメリカが空襲を始めました。45年に沖縄に上陸してからは空襲は一層ひどくなり、6月に佐世保が焼夷弾攻撃されたので、次は長崎だと覚悟していつも着のみ着のままで逃げられるようにしてました。長崎には兵器工場や造船所が一杯あるからですねえ、毎日生きた心地はしませんでしたよ。
8月1日に長崎駅前が爆撃され、死傷者がでました。
9日の朝は蝉がじゃんじゃん鳴いていました。その日は朝から空襲警報、警戒警報が次々と解除され、外に出ていた人が多かったんです。
私は活水女学校の下の石垣のところに掘ってあった営団本部の防空壕に非難させていた帳簿を取りに行ってたんです。防空壕に入ったとたんに爆風でボールのように飛ばされ、目から線香花火がチカチカと出て壁に突きあたって落ちたのですがその時の後遺症で今だに首から足まで痛むんですね。本当に手も足も出なかったんです。
会社に行ってみるとガラスが飛び散って皆皮膚に刺さって血だらけになっていて、誰が誰だか見分けがつかなくなっていました。ガラスの破片を抜いてやると血がびゅーっと吹き上がるのでしばらく血が固まるのを待ってから抜いてたんですが、小さいのはもう入りっぱなしですよ。
そのときは原爆とは知らないからまた攻撃されると思って皆山のほうに逃げたんです。田上という高いところの防空壕に行きましたがそこは人で一杯だったので、そこ地主さんの敷地の中のひわ小屋の中にいさせてもらいました。外に出たら竹やぶの中にも負傷した人が一杯寝転がっていました。
今まで青空だった空は真っ暗になってオレンジ色の光がちらちらと見えていて夜もB29が旋回していました。浦上の空は真っ赤、火の海でした。
次の日までそこにいたら地主の農家の人がキュウリをくれてその美味しかったこと。喉が渇いてましたから。
2日後に会社に行っていたら学徒動員の男の子が家の中に寝かせられているのが見えたんですが、男の子が怪我したところからうじ虫がむくむくと湧いていてその子のお母さんが割り箸でうじ虫をとってあったんですね。ぎょっとしてその場を走り去ってしまったんですがあの時優しい言葉をかけてあげれば良かったと今でも後悔しています。
ある日会社に行っていたら男の子が狂うように泣いて火のなかに飛び込んでいこうとするのをその子のお爺ちゃんお婆ちゃんが必死で止めてあるんです。その子のお母さんを焼いてあったんですね。・・今でもスーパーなんかで小さい男の子が「お母さーん」と泣いているのを見たりするとあの時のことを思い出すんです。お母さんと一緒にいるのを見るとああ良かった、なんて。
何日か経つとあちこちで家族を焼いたあとが点々としていました。
大八車に木の枝を積んで運んでいるのかと思ったら人の焼死体の手足だったり。そんなのが1日に何台も通っていたんです。
幸い家族は無事でした。父は人が水を欲しがるのであげたら水筒にその人の手の皮膚が一緒に付いてきたと言ってました。髪の毛の無い人とか皮膚の垂れ下がった人とか、幽霊の話など、そんな生やさしいものではなくて物凄い光景だったんですよ。
そのときは何でもなくても暫くして何かの症状がでてくる人も一杯いました。
戦後は家業の後を継いで額縁屋をやりました。といっても東京に仕入れに行っても東京も空襲で焼け野原で仕入れていた店は無くて立て札が立っていて「どこそこにいます」なんて。それでしょうがないので京都から仕入れました。戦後も長崎には外国の船が入ってきていて兵隊さん達相手によく絵を売りましたよ。といっても印刷の浮世絵とかですけど。一番絵に興味を持っていたのはフランスの兵隊さんでした。県庁に英語も習いに行ったんです。生きるためには必死でした。
1年くらいして米軍の船がやってきて中からジープが100台くらいでてきて私達を見下ろして「ヘイ、ユー」なんて言うので皆で「返事しちゃいけない」なんて囁きあってましたが、ぜーんぶ黒人ですよ。全く物量で負けたと思いましたねえ。私達はちまちまとバケツリレーなんかやってたんですから。
シナ事変のころは「国防婦人会」とかいってたすきがけして勢いは良かったんですけど大東亜戦争になっていっぺんに状況が変わりました。
結婚はしませんでした。あの頃被爆した女は小頭症の子を生むという噂があったので、辛い思いをするのは自分ひとりで充分、子どもにまで苦しい思いはさせたくなかったんです。怖かったですね。
男に負けじと頑張ってきました。70くらいまで仕事をするつもりだったんですが63のときに長崎大水害に逢いまして胸まで水に浸かってしまって店も商品も全部ダメになったので流石に諦めてそれからはここのお世話になっています。
火攻め水攻めの人生でした。友達からは「あなた、前世でよっぽど悪いことしたのよ」なんて言われまして、そうかもしれない、なんて。なるべく良いことしなくちゃと思っているのですが。・・今でもスイカがでたりすると「これはあの人に食べさせたかったねえ」なんて言い合うんですよ。
<高山シズエさん(2011年取材時87歳)>
私は21歳の時被爆しました。
そのときは三菱兵器工場で魚雷の部品の型作りをやっていましたのでまさに爆心地だったのですが奇跡的に助かりました。
その瞬間は私めがけて閃光が来たような気がしました。暫く気を失っていたのですが気がついたら周りにはだれもいなくて外に出たら火の海だったんです。とにかく逃げなきゃで走っていたら私の横を走っていた男の工員さんの右目がどろんと飛び出していたんですよ。ぎょっとしたんですけどそのまま走るしかなくて、人が折り重なってうめき声をあげている中、双子橋を渡って十字架山に皆で登ってそこで一晩明かしたんです。防空頭巾をかぶっていて額から汗がでてたと思っていたんですが人から顔中血だらけと言われました。
あのときは警報が解除になっていたので皆防空壕から出てたんです。
次の日は(水の無い)川の中は人の山で死んでたり死にかけていたり。後ろから呼ぶ声がしたので振り向くと寮の同じ部屋の山本さんだったのですが顔が膨れていて、翌日亡くなりました。
道にも腕や足の無い焼死体が散乱していて、純心女子学園は一夜明けてもまだ燃えていました。
焼死体を避けたり踏んだりしながら駅まで行って汽車に乗り、佐世保の小学校に避難してそこに10日ほどいました。次の日に湯呑み1杯のお粥をいただいたんですがその美味しかったこと。・・そこで終戦を知りました。名前や住所を書かされていたので父が私の居所が分かったのか、万歳丸という船をだすから大波止の港まで来るようにという知らせがきました。・・父は若松で船会社を経営していたのです。
長崎に戻ってみると浦上の街は遺体がきれいに片付けられていました。色々なところからボランティアの人達がやってきて片付けたみたいです。
全部トラックでまとめて運んで伊良林小学校の運動場にざーっと落として焼いたみたいです。
2日くらいして若松から万歳丸がやってきました。なるべく沢山の人を乗せようということで出航まではかなり時間がかかりました。
戦後は米兵が一杯入ってきて殺されるかと思って怖かったですよ。
あの頃被爆した女は小頭症の子を生むといって差別されていたのですが私はそれでもいいと言ってくれる人がいて翌年結婚して女の子を産みました。美枝子っていうんですが、この美枝子がですねえ、生まれたときは髪の毛がふさふさして可愛かったのですが、生まれて1週間ほど経ったときに突然40度の熱をだしまして、頭から汁がでて髪の毛が抜けてきたんですねえ。・・その後も肺炎や気管支炎を繰り返しまして、いつ死ぬかいつ死ぬかとハラハラして、主人の父は祈祷までしてくれて、私の両親もものすごく心配していたのですが、幸い2歳くらいから汁も出なくなって笑顔もでるようになってきたんです。弱いながらもどうにか小学校を卒業し、中学、高校も卒業して就職して結婚し、男の子をひとり産みました。そして34歳になったとき突然電話がかかってきて、美枝子が倒れて長崎大学病院に入院しているというので駆けつけてみたら、その時はもう死んでたんです。急性骨髄性白血病っていわれました。
こんな思いをするんだったらいっそあの時意識不明のまま死んでたら良かったと思いましたよ。・・だけど今ではこんな話をするためにマリア様が私を生かしてくださったのだろうと思ってます。マリア様はなんでもお見通しですから。
その後は残された孫を育てるのが私の役割だと思ってやってきました。
福岡の福祉の学校を卒業して今はもう働いています。最近私に携帯電話を買ってくれて、それで孫と話をするのが楽しみなんです。
・・あなた良かったですねえ、戦争の無い時代に生まれて。私たちは青春時代に恐ろしい目にばかり逢ってきましたよ。
・・ここにもよく中学生なんかが話しを聞きに来ますけど私いつも言うんです。
「あなた達皆頭良さそうな顔してるけど総理大臣になったら絶対に戦争はしないでね、皆が幸せに暮らせるのがいいからね」って。
*長崎原爆ホーム:純心女子学園の創設者シスター江角ヤス氏が原爆で亡くなった純心学徒隊の親の面倒は自分が見るとして創設した老人福祉施設。
今では広く被爆者の人達を受け入れている。1981年ローマ法王ヨハネ・パウロ2世来訪。
<杉本邦夫さん(2011年取材時66歳)>
私は山里小学校原爆資料室の案内ボランティアをしています。
爆心地から1.4キロの地点で被爆しましたがその時はまだ10ヶ月の赤ん坊だったので記憶は何もありません。
幸い家が二重の煉瓦塀で覆われていたので命は助かりましたが隣が三菱兵器大橋工場だったのでガスタンクの爆発による火災で家は全焼しました。
母は必死で私を抱いて顔中血だらけになって山のほうに逃げたようです。
小さいときから脱毛や下痢、頭の吹き出物に悩まされましたが今のところそれ以上重篤な症状はでていません。
今も2年に一度アメリカが放射能が人体に与える影響を調べる「放射能影響研究所」というところでモルモットとして血液とレントゲンのチェックを受けています。
戦後まだ66年しか経っていないので、今のところはどういう癌になるとかの疫学的データはでていないという状況です。・・勿論大体の傾向はありますよ。だけどはっきりとどうとは言えないという段階です。今度の福島の原発事故による放射能と原爆の放射能とでは種類が違いますから、それも一律に答えはだせません。でも私個人的には将来的に必ず何らかの影響がでてくるのではないかと思われます。どちらかというと被曝2世のほうがサンプルとしては適切かもしれません。
私は北九州大学を卒業した後外資系の製薬会社に就職し、大阪、京都、広島、東京と転勤し、2004年に長崎に帰ってきました。
広島にいるときは「長崎証言の会」というのを広島でも立ち上げようという草の根運動に参加していました。
被爆者の人達は、皆何らかの形で人生を歪められ、ひどい目に逢った上に差別されて、死ぬも地獄、生きるも地獄ということだったわけですが、その被害の度合いは人によって違うので、思いや考え方もそれぞれ違います。
原爆が落ちたから戦争が早く終結した、アメリカが効果を実験した、無差別大量殺戮をした、今も昔も国際法違反である、等々です。
母は死ぬまで原爆憎しでした。一応大きな家だったのを焼かれ、3年ほど掘立小屋暮らしになって晩年は乳癌と大腸癌を患いましたから。・・でもそれが原爆の影響かどうかはわかりません。でも私には長いこと何故か原爆のことは一言も話しませんでした。
私はどちらかというと、もうしょうがないから平和にやっていきましょう、というほうです。勿論100%許しているわけではないのですが、恨みに思っていたら気持ちがもちませんので。
アメリカには今も3つのremember(決して忘れるな)があります。ひとつ目はアメリカがメキシコからテキサスをぶんどったこと、二つ目は米西戦争、三つめは日本による真珠湾奇襲攻撃です。この時使われた魚雷が空母アリゾナを沈めたので兵器工場のあった長崎が狙われたのではないか、とも言われています。
今も私が思うにおそらくアメリカ人の8割以上が原爆投下は正しかったと考えているのではないかと思われます。
先日アメリカからのフルブライト留学生の教師の方々がお見えになりましたので勿論政治的、感情的なことは抜きにして客観的な事実の説明をさせていただきました。
核兵器を実際使ったらどうなるのか、ということなんですが、勿論米軍はそのことも詳しく調査してますよ。でも一般の人達は意外と知らないので、実相を目で見てもらって感じてもらうということです。
アメリカは自国での核攻撃を恐れていて、冷戦のころなどはシェルターに避難する訓練を行っていたという話もされていました。
これからの時代は直接原爆の怖さを経験していない世代の人達にいかに継承していくか、その橋渡しが重要なことだと思っております。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 以上最後までお読みいただき有難うございました。熱心さに感謝致します。
さかいようこ後記
私の叔母は1945年広島で被爆した。
翌年生まれた長女は後に甲状腺癌を患い、その後に生まれた長男には頭(脳)が無かった。
幼い頃この事実を母から聞かされたときのショックは今だに忘れることができない。
その後叔母に会うことは何度もあったがとうとうこの事については何も訊く勇気がでなかった。
ちなみに長女は「母の被爆のことは何も聞かされていなかった」と話していた。
快く取材を許可してくださいました施設長シスター堤房江様、被爆当時の写真の使用を許可してくださいました長崎原爆資料館担当白石ひとみ様、原爆(被爆)全般について語ってくださいました山里小学校案内ボランティア杉本邦夫様、被爆者の方々のお話しを英訳してくださいました横溝キャレン様に感謝致します。